「長期」と「長期的」はしばしば混同されるが、全く別の意味を持つ言葉である。
一般に「長期」とは10年である。長期計画という場合は10年計画をいう。将来を予測することは困難であるから、長期計画はしばしばそのとおりにはいかない。では、長期的視点や長期的思考を持つことは無意味であろうか。否、将来を予測し得ないからこそ、必要になるはずである。
「長期的」の意味するところは、対象の時間的把握である。「時の審判」という発想は、そのヒントになるであろう。
(前略)その冒頭で主席弁護人は、「時の審判」にこの法廷自体が裁かれないため、最善を尽くすのが自分たちの義務であるがゆえにこの弁論を行うのだとのべている。さらにそこには、たとえこの法廷では「敗訴」になっても、「時の審判」という最終法廷では必ず自分が勝つという強い信念があり、その信念を堂々とのべている。
彼はまた「一時的感情」の充足は決して正義でなく、それは常に「時の審判」に耐え得ないものであるから、法廷はこのことを慎重に考えるべきであるとのべる。そしてこれらのことを調べているうちに、否応なく連想されたのが一連の公害裁判、特にイタイイタイ病の裁判とその報道であり、同時にそこには「時の審判」こそ最終法廷だといった発想も、法廷とは「感情的充足」を制御する機関だという発想も皆無であったということである。(中略)
いまでこそ、イ病の原因はカドミウムではないという記事が、平然と新聞に載っている。これも「時の裁判」なのであろうか。そしてさらに「時」がすぎ、もしこの記事の正しさが確定されるなら、そのときは「時の審判」という最終法廷で、あの裁判自体が裁かれたということになる。そしてこの審判こそ真の意味の「最終審」で上告の方法がない。ではこのことを意識して、そのときのために最善を尽くすといった発想があったであろうか。(中略)
「時の審判」という発想は、一時的感情が過ぎ去れば、未来のある時点では必ずこれが正しいとされるという発想をもとに、その未来により逆に現在の自分を規制し、同時にこの規制に従わぬものは未来のある時点では裁かれるという、問題の「時間的把握」を基礎にしている。
山本七平(2015)『「常識」の研究』p94-97, 文春文庫.
「長期的」とはなんとも捉えづらい言葉であるが、自身に引き写して意味ある言葉とするなら、以下のとおりである。
引用中では時の審判に裁かれているが、実際には、我々は自身に裁かれ、しばしば後悔となって現れる。したがって「そのときのために最善を尽くす」とは、後悔しない生き方をする、ということを指す。それは、将来を予測することが困難な事態にあって、最も必要とされる姿勢である。